人は何歳であっても言われるのが、「年相応」という言葉です。
特に日本人は強いかもしれません、というか、もしかしたら日本人だけかもしれませんね、こんなこと言うの。
小学生になったら「もう小学生なんだから」、中学生になったら「もう中学生なんだから」、高校、大学、成人、社会人と延々と続くんです。
何を言わんとしているかというと、つまり、世間の常識におさまるような行動をしなさい、常識人になりなさいということですよね。
一般的には至極まっとうなお話しだと思うのですが、僕的にはでっかいクエスチョンマークなんですよね。
「なんなのそれ?」
って感じなんですよ。
だってですよ、常識とか、ルールとか、もっと極論で言えば「良いこと」に年齢とか関係ないじゃないですか?
僕は「品行方正に生きるべき」と声高に主張するようなタイプではありません。
ありませんが、なんだかこの「相応」って言葉でこじんまりとしたくないんです。
だいたい、なんでもかんでも「相応」内におさまるような人って、つまんないと思いませんか?
それに相応にしていたら何にもチャレンジしなくなると思いませんか?
ということで、あらためて分相応についてお話ししていきたいと思います。
こんにちは、50歳からの筋トレパーソナルサポーター
よういちろう
です。
このブログでは、中高年のための充実した健康的な生き方を
筋トレパーソナルサポーターの立場からお伝えしていきます。
このブログが、あなたの健康な体、より豊かな人生を作るための
きっかけになれば幸いです。
今回のテーマは
『 常識にとらわれずに!チャレンジを楽しもう!』
です。
「身の程を知る」ってどういうこと?
「身の程を知る」に似た言葉で「身の丈を知る」、「分不相応」という言葉があります。
「身の程を知る」とは、自分の程(地位、立場、能力)を知ること。
「身の丈を知る」とは分相応(状態)を知ること。
「分不相応」とは、身分や能力にふさわしくないこと。
どう思います?
要は「自分の能力を知って、わきまえなさい。」ってことですよね。
自分の能力ってどのくらいのものか分かります?
で、ですよ「身の程を知れ」って言う人は、明らかに相手の能力を分かっているつもりで言ってますよね。
「おまえにオレの何が分かるんじゃい!」って言いたくなりますが・・・
自分でも分からない自分の能力の限界をなんでお前が分かるんだ、って話ですよ。
「お前はその程度の人間なんだから、高望みせずにその程度の生き方で満足しておきなさい。」と言ってるようなもんですよ。
「冗談じゃない!」ってなるじゃないですか。
でも実際日本ではそういう教育が行われてきたわけですよ。
みんな同じになるように、みんな平均になるような教育ですね。それじゃ、個性はつぶされます。
分かりやすいのが偏差値ですよね、「あなたは偏差値〇〇だから、このクラスの大学を受験しなさい」と。「あなたの身の程はこれくらいだから、その身の丈に合った学校に行きなさい」と言ってるわけです。
こんなことを言われ続けて育ったらどうなると思います?
何事にもチャレンジしなくなりますよね。
「どうせ僕はこの程度なんだから、チャレンジしたって無駄だ」ってなっちゃいます。
ほんとに「身の程を知れ」って危険な言葉だと思います。
ポジティブに解釈すると
ちょっと熱くなってしまいましたので、いったん冷静になってポジティブに捉えられないかを考えてみましょう。
「身の程を知る」=「自分の力量を知る」というふうに捉えるとします。
そうすることで、自分の現在地が分かります。
例えば、東大に行くという目標があって、東大に合格するには偏差値70はないと厳しいとします。
(実際に偏差値70でなんとかなるかは別として)
自分の偏差値が60だとしたら、10足りないわけです。
その足りない10をどうやって埋めるのか。得意な数学をもっとがんばるのか、苦手な英語をがんばるのか、いろいろな手段、方法を検討することができます。
具体的な指標があれば、自分を過大評価することも過小評価することもないでしょう。
客観的に自分の現在地を把握して、目標に届くには何が足りないのかを冷静に分析し、それに対しての対策を立てられます。
こういう使い方をするのであれば、「身の程を知る」というのはいいかもしれません。
ただ、個人的には別な言葉を選びますが。
身の程なんて知らずにチャレンジしよう
僕は「身の程」なんて考えなくていい、というのが持論です。
どんどんチャレンジすればいいと思います。
チャレンジしないと分からないこと、チャレンジしたからこそ分かることっていうのがたくさんあります。
周りのアドバイスに耳を傾ける聡明さは必要だと思います。
ただし、そのアドバイスでチャレンジしなくなるのは違うと思うんですよ。
成功者と言われる人は、チャレンジしたからこそ成功を掴み取っているんです。
今で言うと、GAFAMの創業者なんて、とてつもないチャレンジをしたからこそ、あそこまでの成功を手に入れているわけです。
彼らが「身の程を知る」なんて、これっぽっちでも考えたなら絶対に今の成功はなかったと思います。
筋肉だってそうなんです。
筋トレをして、今の筋肉のキャパを超える、キャパを超えるから筋肉がそれに合わせて大きくなっていくわけです。
現状のキャパ以内の強度しか使わなかったら、筋肉はおおきくなりません。
もっと具体的に言うと、キャパを超える強度を与える(限界を超える回数、重さの筋トレをやる)ことで筋肉は破壊されます。断裂するんです。
その破壊されたときに筋肉痛が起こります。そして、そこを修復するたびに筋肉は大きくなっていくわけです。
まるで成功者の人生みたいじゃないですか。
チャレンジ(筋トレ)して、失敗(筋肉痛)して、またチャレンジ(更に負荷をかけた筋トレ)して、それを繰り返していつか成功(理想の筋肉、体型)を掴み取るわけです。
「身の程を知れ」っていうのは、筋肉、筋トレをも否定するような言葉とも受け取られかねないんです。
だったら、僕らトレーニーには「身の程を知る」なんて言葉は必要ないですよね。
まとめ
「身の程を知りなさい」と先生や家族など身近な人に言われてしまうと従わなくてはいけないんじゃないかと思ってしまいます。
実際、それに従うことができる人が、これまでの日本では良いとされてきました。
でも本当にそうでしょうか、それでいいんでしょうか。
現在の日本、いや世界を見ると「身の程を知る」なんてマインドじゃ生きていけない時代なんじゃないかと思います。
何事にもチャレンジできるのが今の時代です。
自分の殻を破るなんて当たり前、今日の常識が明日は非常識になってるかもしれないような時代です。
世の中の流れが異様に速くなっている時代です。
チャレンジし続けることに価値があると思いませんか。
チャレンジするのは若い子だけの特権ではありませんよ、僕ら50代でもいくらでもチャレンジできます。
チャレンジすることもいくらでも見つかります。
「身の程」なんて殻はすぐにぶち破って、どんどんチャレンジしていきましょう。
筋トレはその感覚を養うのに持って来いですよ。
筋トレで今の自分を超えていく感覚を掴んで、自分の夢、目標に向かって進みましょう。
それでは、また。